紆余曲折の先に見えた濱原颯道の強みとは

 2022年の全日本ロードレース開幕戦。トップカテゴリーであるJSB1000クラスのレース2で、レース開始早々、“絶対王者”こと中須賀克行を数ラップに渡ってブッチ切るスタートを見せたライダーがいた。濱原颯道――そうどうと読む、プライベートチーム、ホンダドリーム桜井ホンダのライダーだ。

「僕、他のライダーに絶対負けない『あること』があるんです」

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濱原颯道|

1995年1月17日生まれ。神奈川県出身。ロードレースやスーパーモタードで活躍。
2022年現在全日本ロードレース選手権JSB1000クラスにHonda Dream RT 桜井ホンダから参戦している。

  身長191cm/体重90kgと、日本のロードレース史上でも上から何番目かに大柄なライダーであろう濱原は、ライバル達とかなり違う道を歩んで、全日本ロードレースのトップカテゴリーにたどり着いた。

「小学生の頃、父に連れられてモトクロス、キッズカート、ミニモトクロッサーにロードタイヤのバイクでキャリアをスタートしました。割と早いうちに上手く走るのが上手な子だったみたいで、初レースか2回目のレースで、雨のレースをブッチ切りで優勝したのを覚えています」

  颯道少年は、負けて怒られるより、勝って褒められる喜びを覚えた。小学6年生くらいには、もう2ストロークレーシングマシンRS125に乗り、菅生選手権でチャンピオン、筑波選手権でランキング3位になった年もあった。

「中学2年かな、桶川塾所属で、全日本ロードのGP125にフル参戦したんです。でもその時……」
 颯道少年が、急激な成長期を迎えたのがこの頃だ。1年に身長が10cm以上も伸びて、それまでの走りができなくなってしまったのだという。

「体が急激に大きくなりすぎて、ぜんぜんバイクに上手く乗れなくなっちゃったんです。GP125のシーズンでポイントも獲れなくて、翌年にはもてぎ選手権でST600に乗ったんですが、ここでもぜんぜん上手く乗れなくて。もう、バイクが全然面白くない、レースなんか辞めちゃおう、って思っていた時期でした」

 けれど、濱原の周りが若い才能を放っておかなかった。バイクはレースだけじゃないよ、レースだってロードレースだけじゃない――そう説得されたのが効いたか、濱原はひとまずレースを離れても、街乗りのライダーとしてバイクに乗り続けた。

「街乗り、楽しかったですね。サーキットみたいな条件のいい路面じゃないし、まわりにクルマも走ってる、歩行者もいるなかで、サーキットよりバイクをきちんとコントロールしなきゃいけないじゃないですか。毎日バイクに乗ってました。それから少しバイクの興味が復活して、レースにも復帰したんです」

 レースに復帰しても、思うような成績を残せず「やっぱりレースはイヤ」なんて気持ちにもなったものの、上手く乗れた、成績を出せたレースがあると「あれ?やっぱり僕上手いんじゃ?」と思うこともあった。そんな、自己評価さえ定まらない濱原を上昇気流に乗せたのが、モタードレースだった。

「親が、レース辞めるにしてもバイクには乗っていたらいいのに、って言ってくれて、レースはロードだけじゃない、こんなのもあるよ、って出場を勧めてくれたのがモタードだったんです」

 まわりのライバルよりも長い手足でモタードを操る濱原。買ったばかりのマシンで、練習もせずに出たレースでは、トップのライダーから1秒と遅れない走りが出来たのだという。濱原のトレーニング風景を見たことがあるが、オフロードマシンでダートトラックトレーニングをしている最中、ウィリーで走り続けたかと思えば、イン側にひざを突き出して、平気でロードレースのようにひざを擦ってコーナリングする離れ業を見せてくれた。ちなみに、モタードのデビューレースで濱原がつついていたのが、後のヤマハワークスライダー、野佐根航汰だ。

「全日本モタードは3年やりました。スポット参戦を2年、3年目にフル参戦でS1プロっていうトップカテゴリーでランキング3位になれた。それから、知り合いを通して、8耐チームを作るから走らないか、って話をもらったんです」

 ここからが濱原の本格的なロードレース復帰となる。鈴鹿8耐に初出場を経て、2017年には1シーズン限りだったが、ヨシムラの正ライダーに抜擢され、世界耐久チームにも加入。ルーキー・オブ・ザ・イヤーにも輝き、翌18年から全日本ロードレースに復帰するという桜井ホンダ入りし、現在に至るのだ。

「桜井ホンダって、街のバイク屋さんです。レースをやると言っても、高いマシンを用意するようなスタイルでなく、誰もが買えるマシンに市販レースパーツを組んで、ショップのスタッフさんとレースに出る、というスタンスです。超プライベートチーム、誰がどう見たって不利なマシンで、ひとつでも上の順位を目指す、っていうのが僕のレースですね」

 18年にはケガもあってランキング22位、19年に13位、そして20年にランキング3位まで上昇すると、21年シーズンにはホンダ勢最上位のランキング2位にまで上り詰めた。

「ホンダ勢最上位といっても、表彰台に2回だけ上がって、優勝はできなかった。でも、マシンが新型CBR1000RR-Rになって、セッティングを組み合わせて、自分仕様のマシンが出来上がってきた。僕のマシンは調整できる範囲で、ホンダCBR勢の中で一番ホイールべースが長く、シートが高いらしいんです。他のホンダライダーがまたがって『よくこんなデカいマシンに乗れるな』って(笑)。これ、僕が大きいからのセッティングじゃないんです、前に青山博一君(Moto2/チームアジア監督)に乗ってもらったんですが、僕より20cm近く身長が低い博一君にも『いいよこの仕様。もっとシート上げてもいいと思う』って言ってもらったこともありました」

 濱原が言う「ほかのライダーに負けないあること」とは、乱戦に強い、ということ。トップ争いが大集団になったり、気温や路面温度が低くてタイヤが充分にワークしなかったり、そんな乱戦。

「僕、全日本のライダーの中で、タイヤに熱を入れるのがいちばん早いという自信があります。通常の路面温度では、それがタイヤのヒートにつながることもあるんですが、路面温度が低い時、ハーフウェットの時、これが大きな武器になるんです」

 2022年の開幕戦もてぎ大会では、ドライのレースだったレース1に続き、レース2開始直前には雨が降り始めて、スタートディレイからのウェットタイヤでのレース。急な雨で、タイヤ交換がバタついたりウェットタイヤ走行の時間が少ないという混乱の中で、濱原がスタート直後からレースをリードしたのだ。

 レースは結局、中盤にヤマハワークスチームの2台にかわされての3位フィニッシュ。しかし濱原、開幕戦から幸先のいいスタートを切ることができた。そういえば、マシンが現行の1000RR-Rになった初レース、2020年の開幕戦で表彰台に上がったのも、雨の菅生だった。

「コンスタントにいい成績を収めて、ホンダから認められたい、って気持ちはありますね。ホンダ勢最上位になっても供給されるマシンやパーツが変わらなかったから、今は鈴鹿8耐に照準を定めています。2022年、僕のセッティングでも乗ってくれて、僕よりタイムを出すこともある日浦大治朗君と、世界選手権帰りの國井勇輝君とチームを組んで出場します。3人とも大きなライダーですよー!(笑)」

 濱原は全日本のライダーの中でも、ファン人気が高いライダーだ。きっと、小学生の頃のように、負けて怒られるレースより、いいレースをして回りが喜んでくれるのがうれしくてしょうがないのだ。

「桜井ホンダのみんなとレースをやったり、ファンのみんながサーキットで声をかけてくれたり、そういうのが大好きなんです。中学2年生くらいまで、MotoGPライダーになりたいと思ってました。それが現実的じゃないとわかっている今でも、ファンのみんなが応援してくれるプロライダーでいることがうれしいです」

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