肩書き:鈴鹿製作所 オートバイ部部長
「あそこまでは順調だったんですけどね。でもしょうがない、それがレースです。若いライダーを責められないですよ」
3年ぶりに開催された鈴鹿8時間耐久ロードレース。2022年の全日本ロードレースに新風を吹き込んでいる亀井雄大率いる、ホンダ爽風会鈴鹿レーシング。そのゼッケン25番・CBR1000RR-Rが、鈴鹿サーキットの1コーナーのグラベルを派手に転がり、空中で大回転しているシーンが国際映像に大写しになっていた。
レースが始まって、もう少しで2時間経過、というタイミングだった。
亀井は鈴鹿8耐へ6度目の出場。日浦大治朗/安田毅史とトリオを組んで、2015年に8位、16年に47位、17年は20位と走り切ったものの、18年は180周で、19年は日浦と2人ライダー体制で206周リタイヤ。とはいえ、今までは先輩ライダーと組んでの出場。あくまでも「3人目」や「ペアライダー」的なレースだった。
本田技研工業・鈴鹿製作所の従業員で結成される、名門「鈴鹿レーシング」の部長となって初めての鈴鹿8耐。つまり亀井はサラリーマンライダーだ。亀井26歳、ペアの杉山優輝と田所隼はともに23歳、鈴鹿8耐出場全45チームの中で、飛びぬけて若いチームを、亀井がエースライダー、リーダーとなって引っ張っていた。
「8耐用のマシンって言っても、8耐仕様があるわけじゃなく、僕が全日本を戦っているマシンです。だから、いつものマシンに手作りの電気系ハーネスを追加して、燃料のセッティングも耐久用じゃなく、パワー重視。パワーは出るけど燃費は悪い、最初から8回ピット、9スティントで走る予定は立てていました。心配事は……手作りハーネスが燃えちゃわないかな、ってこと(笑)」
2回の公式予選では、亀井が組7位、田所が組13位、杉山はセッション中に降り出した雨にアタックできず29位。タイムのいいふたりのライダーの平均タイムで総合順位が決まるため、鈴鹿レーシングは総合9番手。予選上位10台までが出場できるトップ10トライアルの出場権を獲得した。
鈴鹿レーシングより上位の8チームは、ワークスチームやセミワークス、有力プライベーターばかり。この時点で、もう鈴鹿レーシングはスゴい位置を走っている!
「トップ10は、まずひとつめの目標でした。17年にもトップ10トライアルに出てるんですが、僕そこで転んじゃってるんです。そのリベンジというか、かなり楽しみにしてたんですけどね」
結局トップ10トライアルは、その前に行なわれたフリー走行で転倒車があったためスタート時刻が遅れ、通常の40分間のタイムアタックに変更された。そこでの鈴鹿レーシングは8位。つまり8番グリッドからのスタートとなる。
スタートライダーは亀井。しかし、安定しない天候が、この日から「いつもの8耐」のように晴れ上がった気象の変化で、マシンのフィーリングはいまいちだった、という。それでも亀井は、オープニングラップこそ順位を落としたものの、すぐにトップグループ後方、4~5台からなる7~8番手集団あたりにつけていた。
その時――。
「2周目のスプーンで、僕の目の前にいたライダーが転んで、滑ったマシンがそれより前のマシンに当たる大クラッシュでした。僕にも転倒したマシンの跳ね上げた泥がかかっちゃうような距離で。それでセーフティカーが入って隊列走行が始まって、20分くらいですかね。僕としては、フルタンク時のフィーリングがよくなかったのが帳消しになるかな、って思ってました。けっこう冷静だったですね、順位もこれでふたつ上がったな、って」
セーフティカーが介入したのは6周20分ほど、そしてセーフティカーが解除になると、亀井のペースも上がっていく。トップグループと変わらない2分09秒、10秒台で周回を重ね、28周目にピットへ。ここまで亀井に次ぐタイムをマークしている田所にスイッチした。
「走行が終わって、プールに入って体温を下げて、着替えをして控室に戻ってモニターを見ていた時でした。場内放送で『鈴鹿レーシングの田所がいい位置につけています』ってアナウンスされた少し後に、1コーナーで宙を舞ってるマシンが大写しになったんです」
田所は、亀井から受け取ったバトンをしっかり受け取り、8番手をキープしていた。序盤のポジションとしてはかなりいい位置で、ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキの4大ワークスチームに続く有力サテライトチームのすぐ後ろ。あと数周で第3ライダーの杉山にバトンを渡す、そんなタイミングだった。
「田所もいいペースで走ってたんですよ。でも、ライダー交代まであと3~4周かな、ってところで転倒しちゃって。そのシーンが何度もスローでリプレイされて、マシン、5mは上がってましたよね(笑)。おかげで僕はマシンのダメージを見られたんです。でも、あぁこりゃもうだめだなぁ、と。今年は早く終わっちゃったかぁ、と。ライダーはグラベルに転がって大きなけがはなさそうだったからホッとしたんですが、マシンはタテ回転の後にスポンジバリアに落下して廃車コース。僕も公式予選で転んで、フロントホイールまわりとかタンクなんかをダメにしてたんですが、その比じゃなかった」
しかし、亀井が控室で絶望しかけている頃、ピットスタッフたちはマシンの修復準備に取り掛かっていた。モニターに映ったマシンから、どのあたりがダメージを受けている、どのパーツを交換した方がいいのか、すぐに手元に置いて、すぐに修復できる準備を始めたのだ。
「正直、フレームとエンジン以外は交換だろうな、終わっちゃったなぁ、と思っていたんですが、レッカーで運ばれてきたマシンは意外と軽症で。スイングアームとかリア回りは無事で、ヘッドライト系とフロントホイールがダメだったかな、あの転倒の割にはすごい軽症でした」
結局、チームは、廃車寸前かと思われたマシンを1時間足らずで再びコースに送り出す。転倒し、マシンがレッカーでピットに戻され、修復してコースインするまで1時間02分しかかかっていなかった。作業時間は40分といったところだろうか。これが鈴鹿レーシングの底力だった。
「変わった杉山は、ダメージを心配しすぎたのか、ぜんぜんタイム出なくて。メカのみんなは、完全に修復しきった自信があったから『あいつなにやってんだよ』って(笑)。僕もマシンのダメージは心配だったんですが、次にコースインしたら、あれ?1回目の走行よりフィーリングがいいぞ!って(笑)。9秒ラップとかできちゃったんで、杉山の走りは50点です(笑)」
トップから20ラップ遅れくらい、ほぼ最後尾でレースに復帰した鈴鹿レーシングは、快調なペースで追い上げを見せていた。亀井がトップグループと変わらない2分09秒ラップを見せたかと思えば、杉山は11~12秒でコンスタントに周回を重ねて順位をキープしてみせる。特に亀井の走行時間帯は、30番手以下を走っているマシンとは思えないペースで前のマシンを次々とパッシングし、時にはトップグループを走っているマシンともバトルを繰り広げる、痛快な走行だった。
「時々トップチームに追いついたり、後ろから追いつかれると『あ、国際映像に映り込むチャーンス!』って一緒に走ったりしてましたね。こっちのペースが速いな、と思っても、向こうはトップ争いをしていて、こっちら30位かぁ、って抜くわけにもいきませんでしたし」
レース開始から3時間、14時30分ごろに、約1時間のマシン修復を終えて38番手でレースに復帰した鈴鹿レーシングは、その後は順位を上げる一方で、45台中30位でフィニッシュ。レース中ベストラップでいえば、全体の9番手という成績だった。
「結果は残念でしたけど、僕の走行は楽しく走れたし、ライダーもスタッフも若いチームだったので、すごくいいムードでレースができました。来年以降、期待できると思います。マシンは何の問題もなかったし、あとはライダーのレベルアップを図って、また来年がんばります。面白いチームになると思いますよ」
チームは鈴鹿8耐を終えてすぐに次戦の全日本ロードレース、オートポリス大会の準備に取り掛かる。ここは5月の大会で、ハーフウェットの路面コンディションだったとはいえ、ポールポジションを獲得したサーキットだ。
「来年の8耐もですけど、まずは全日本の後半のレースですね。いいポジションを走れているので、また表彰台に上がって、初優勝したいです」
鈴鹿8耐も、全日本ロードレースも、ワークスチーム、プロライダー達の中にあって、亀井は本田技研工業・鈴鹿製作所の社員であり、いわば社内のクラブ活動であるオートバイ部「鈴鹿レーシング」の部長にすぎないサラリーマン。
来年の鈴鹿8耐でのリベンジ、そして全日本ロードレース後半戦での初優勝を目指して、亀井は今日も鈴鹿製作所で軽自動車の生産、設計管理部門で仕事を続けている。
亀井雄大 かめい・ゆうだい
1996年4月16日 神奈川県出身
7歳からポケバイに乗り始め、中学生から本格的にロードレースデビュー。
14歳で筑波ロードレース選手権ランキング4位になったのをはじめ、J-GP3クラスを戦っていたものの
18歳で一度レース活動を休止。しかし、19歳で本田技研鈴鹿製作所に入社し、鈴鹿レーシングでレース活動を再開すると
全日本ロードレースST600クラスを経て、19年にJSB1000クラスにステップアップ。
21年にはJSB1000クラスで2度表彰台に上がり、22年には初ポールポジションを獲得した。
164cm/60kg