クシタニの“いつか”が叶った日【日本のメーカーがアジアのライダーとたどり着いたターニングポイント】

2025年、小椋藍とソムキアット・チャントラという二人のアジア人ライダーが最高峰クラスデビューを果たした。

それは、クシタニライダーの二人が、デビューをしたということでもあった。その意味について、タイGPの週末、櫛谷淳一さんと櫛谷信夫さんに話を聞いた。

櫛谷淳一 / クシタニ社長。「会社としても、このレースサポート活動をよかったことにしなくちゃいけないし、それを継続もしなければならないと思います」と、今後に向けた展望を語っていた
櫛谷信夫 / クシタニ東京社長。アジアのライダーとともについにたどり着いた最高峰クラスに「次のステージのプランを立てていけるところまで来ました。大きなターニングポイントだったと思います」と語る

2013年の決断。迎えたターニングポイント

「いつか、MotoGPクラスに日本のツナギメーカーがフル参戦できたらいいな、と思っていました。やっと来たな、という感じです」

 クシタニ東京社長の櫛谷信夫さんはそう言った。それは、焼け付くような日差しと、うだるような暑さの中、まさにクシタニのレーシングスーツをまとった小椋藍が、タイGPのQ2で5番手というグリッドを獲得した直後のことだった。

 小椋はその週末にスプリント4位、決勝レース5位という結果で華々しい最高峰クラスデビューを飾り、同じくクシタニのレーシングスーツで戦ったソムキアット・チャントラは、タイ人初のMotoGPライダーとして、母国ファンの熱い視線を集めた。

 けれど、タイGPが特別だったのは、小椋とチャントラにとってだけではない。クシタニが、ついに果たした〝回帰〞のときでもあった。

 クシタニがアジアのライダーへのサポートをスタートしたのは、10年以上前のこと、と説明するのは、クシタニ社長の櫛谷淳一さんである。

「その当時、弊社はMotoGPやアジアを意識しておらず、日本のマーケットがほとんどでした。会社の雰囲気も、どちらかというとツーリング寄りでしたね。

 けれど、ご存知の通り、クシタニは黎明期からレーシングスーツを製造、ライダーをサポートしてきました。それを再燃させなければ、作り上げてきたアイデンティティが薄れてしまうのではないか、と懸念していた時期でもあったんです」

 そうした状況から、タイを拠点にしてアジアでの展開を構想していた2013年ごろ、アジア、オセアニア地域の若手ライダー育成を目的とした選手権、アジア・タレントカップ出身ライダーの受け皿となる、ジュニア・タレント・チーム(ジュニアGP世界選手権におけるドルナのチーム)のサポートの話があった。これを受けたことが、スタート地点だった。

 MotoGPへの登竜門となるジュニアGP世界選手権(当時のCEV)のチームをサポートするということは、その道筋はMoto3、Moto2、やがてはMotoGPにつながっている。それだけに、取り組む熱量が求められる、ということでもあった。

 信夫さんはこう語る。

「当然、サポートするということは、投資活動に直結しています。(会社の)体力的にもプロモーションを含め、けっこう勝負どころでした。ずっと、勝負どころだったんです。

 でも、やっとMotoGPまでたどり着きました」

インタビュー中、お二人の絶妙な掛け合いが見られるシーンも。ただ、お二人の思いは同じだ。この週末を「感慨深い」という思いとともに迎えていた

クシタニ不在の35年「感慨深い」

 現在のクシタニの世界におけるレース活動のフィロソフィーは、日本人を含め、アジアのライダーを応援したい、というものだ。

 2013年ごろ、クシタニがアジアに進出し、アジアのライダーへのサポートを始めたとき、アジアでのロードレース人気は黎明期だった。クシタニもまた、タイを拠点に展開を始めようとしているところだった。10数年の歳月、クシタニとアジアのライダーたちは、ともに階段を上り続けてきたようなものだった。

「だから、感慨深いよね」と、兄弟二人三脚で挑んできた信夫さんが淳一さんに言う。そして、こんなエピソードを明かしてくれた。

「10年前、ブリーラムのお寺に行って、願掛けしたんです。『こっちでこういう仕事をするから、成功したらいいね』って。日本ではおみくじを引いたら、それを木に結ぶじゃないですか。タイでは、お金が刺さっているんです。僕たちも、100バーツを挟みました。

 やっとターニングポイントまで来たので、タイGPのレースウイーク中にお礼参りに行こうか、と話をしていたんですよ」

「最高峰クラスは、僕たちの祖母や父が、一度、経験していることなんです」と淳一さんが言う。

「でも、僕たちが入社したころは、そういう時代ではありませんでした。もうそういうことはないんじゃないか、と半分くらい思っていたんです」

 信夫さんも「思っていましたね」とうなずく。信夫さんの記憶にあるのは、35年前、まだ学生だった時分、当時は鈴鹿サーキットで行われていた日本GPで会った、ワイン・ガードナー。ガードナーが、最高峰クラスのクシタニライダーとしての最後。その〝最後〞は、今、過去になった。

「35年経って、MotoGPクラスでクシタニのツナギを着ているライダーが走る。僕たちが働いているうちに、それを達成できました」(淳一さん)

 MotoGP(ロードレース世界選手権)、モータースポーツという文化は1949年以前から主にヨーロッパで培われてきたもので、そこではすでに築かれた関係性がある。手を挙げたからといってすぐに参入できるわけではなく、そのためには時間と体力が必要になる。

「マーケット量も全く違う」と、信夫さんはもう一つの難しさを語る。

「日本のメーカーが参入できないのは、投資をしても海外で商品を流通させられないからです。やるからには海外で収益を上げないと、継続は難しい。

 日本メーカーである僕たちは、ヨーロッパのメーカーよりも移動費含めてコストがかかります。全て、オーバーシーですからね。莫大なコストをかけながら、取り組み、開発をしていく以上は、同時に売る仕組みを作らなければなりません」

 10年は、その布石としての歳月だった。それだけに、「感慨深い」という言葉が、ずしりと重い。

「今、ついに最高峰のクラスまで来た。ここから、次のステージのプランを立てていけるところに来たんだな、と。そう思うと、すごく大きなターニングポイントですね。これからだな、と思います。

 世界最高峰の選手権に装具を供給するということは、つまり世界的にクシタニの製品を手に取ってもらえるフェーズに入っていくことになります。日本だけではなく、アジアのマーケットから、それ以外のエリアに関しても商品を送りこみたい。それが、僕たちの次のステージになると思います」(信夫さん)

 最後に、MotoGPライダーとなった小椋とチャントラに期待することを尋ねた。二人は顔を見合わせる。

「うちの父(会長の櫛谷久さん)は、よく『自分たちはツナギメーカーなんだから、出しゃばらないこと』と言っています。それが父の教えなんです」と、淳一さん。

「今も言ってるよね。でも、そうだと思う」と、信夫さんも同意する。

「僕たちは、陰ながらライダーを支えたいと思います」(淳一さん)

「陰ながらライダーを支えながら」、クシタニは新しい階段を駆け上がる。ここから世界へ、〝さらに〞クシタニの製品が広がっていく。

クシタニのアジアの拠点、「クシタニ・タイ」。2016年、タイのバンコクにオープンした。アジアではアジア・ロードレース選手権のサポートも行っている

ライダーが語るクシタニのレーシングスーツ

クシタニは、MotoGPライダーの小椋藍とソムキアット・チャントラやMoto2、Moto3ライダーに、“NEXUS2”ベースのレーシングスーツを供給している

小椋藍

小椋 藍

「クシタニのレーシングスーツのいいところは、革が柔らかくて着やすいことです。クシタニは『みんなにいい物を供給する』という考え方なのかなと感じます。物を作っている方たちなので、いい物を着てほしい、いい物を作りたい、と思ってくださっていると思うのですが、そういう考え方、もちろん僕は好きですね」

ソムキアット・チャントラ

ソムキアット・チャントラ

「僕はCEV時代からクシタニを着ている。9年だね! クシタニはいつもレースで僕を守ってくれる。僕がクシタニを好きなのは、(革が)とても柔らかいからなんだ。通常、新しいレーシングスーツはきついんだけど、クシタニは柔らかいんだ。MotoGPクラスにステップアップしたときも、僕はクシタニを使いたいと思ったんだよ」

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